林 頼三郎

更新日:2024年02月29日

偉人について

  • 読み     はやし らいざぶろう
  • 生没年  明治11年(1878)~昭和33年(1958)
  • 出身     行田市
  • 明治~昭和期の法律家

     ※頼三郎の「頼」は旧字体(束に刀に貝)

日本の司法界の重鎮

明治11年(1878)、忍藩士三輪礼三の四男として生まれました。幼少より学問が好きで、進修館小学校を卒業し、忍高等小学校に進みました。卒業前に家計の影響から、北埼玉郡役所の給仕となりましたが、郡長林有章(はやしありあきら)に人柄を見込まれ、明治26年(1893)に林家の養子となりました。同年、東京の高橋法律事務所の書生となり、翌27年には東京法学院(現中央大学)夜学部に入学し、法律を学ぶこととなりました。

明治30年(1897)に、判事登用試験に合格し、翌31年には弁護士試験にも合格をしました。その後、東京区裁判所、宮城県控訴院の判事を歴任し、大正9年(1920)には司法省刑事局長、大正13年(1924)には司法次官に就任し、陪審員法の成立に大きく関わりました。

また、法学教育にも大きく貢献し、特に母校の中央大学では、大正14年(1925)に大学理事、昭和3年(1928)には法学部長を務め、同13年から22年までの間は学長を勤めました。晩年には私学学校振興会長、法制審議会委員の公職を務め、昭和33年(1958)の亡くなる4日前には行田市名誉市民第一号に推挙されました。現在、顕彰碑が水城公園にあります。

この記事に関するお問い合わせ先

文化財保護課
〒361-0052 埼玉県行田市本丸2-20
電話番号:048-553-3581
ファクス:048-556-0770
メールフォームによるお問い合わせ