旧藩主松平家の墓

更新日:2022年01月20日

墓石の両側に石灯篭があり、3基の墓石が横に並んでいる旧藩主松平家の墓の写真
石の外柵で囲まれた同じ形の墓石が横に3つ並んでいる旧藩主松平家の墓を左側から写している写真

文化財の概要

  • 読み きゅうはんしゅまつだいらけのはか
  • 区分 市指定記念物
  • 種別 史跡
  • 員数 3基
  • 所在地 行田市埼玉5209  天祥寺
  • 時代 江戸~明治 
  • 公開/非公開 公開
  • 指定年月日 昭和47年11月9日

文化財の説明

この墓地は、忍藩主松平忠堯(ただたか)、忠国(ただくに)、忠誠(ただざね)のもので、松平氏は文政6年(1823)3月に忍藩主として桑名から移封(いほう)となり、天祥寺を菩提寺として建立しました。墓石の形は皆同じで、高さ4.5メートル、台石を三重に積んだ上に石の玉垣を巡らせています。

奥平松平家9代忠堯は、文政4年(1821)に家督を相続し、2年後に桑名藩から忍藩に移りました。桑名から東照宮と菩提寺の天祥寺などを移転新築し、天保7年(1836)には桑名の藩校であった進修館を忍で再興し、藩士の子弟の教育に当たらせるなど、家臣と家族の移転を見事に遂行しました。

11代忠国は、家督を相続した翌年の天保13年(1841)に幕府より異国船警備のため房総半島の富津付近の警備を務め、5年後には半島の先端洲崎と大房崎に転じます。嘉永6年(1853)米国ペリー提督による久里浜での「国書」奉呈後、幕府は二重防御線を張るため品川沖に6基の台場(砲台)を建設し、忍藩は三番台場の守備を務めました。

12代忠誠は、忠国に男子が無く、文久元年(1861)下野国(栃木県)烏山城主大久保家から養子として迎えられ、同3年家督を相続します。慶応3年(1867)将軍慶喜(よしのぶ)の大政奉還後に大阪に至りますが、翌年鳥羽伏見の戦い遭い、江戸に海路脱出します。同年3月に官軍が忍城下に入り、恭順するか否かを迫られ、以後は官軍として東北地方を転戦しました。

地図

天祥寺

墓石の両側に石灯篭があり、3基の墓石が横に並んでいる旧藩主松平家の墓の写真
石の外柵で囲まれた同じ形の墓石が横に3つ並んでいる旧藩主松平家の墓を左側から写している写真

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