忍城跡

更新日:2022年01月20日

あずま橋の奥に見える東門と御三階櫓の忍城の写真
盛土による堤防状の防壁が作られている、現在残された土塁の一部の写真

文化財の概要

  • 読み                  おしじょうあと
  • 区分                  県指定記念物
  • 種別                  旧跡
  • 所在地              行田市本丸17-23
  • 時代                  戦国・江戸
  • 公開/非公開    公開
  • 指定年月日       昭和38年8月27日

文化財の説明

忍城は、室町時代の文明年間(15世紀後半)にこの地を統一した成田氏によって築城されたと伝えられており、天正18年(1590)までの約100年間、初代城主の成田顕泰(あきやす)以降、親泰(ちかやす)、長泰(ながやす)、氏長(うじなが)の四代にわたり、成田氏の居城でした。

忍城が築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた低湿地で、小さな川が乱流し、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっており、そこに残る島や自然堤防を巧みに利用して築かれました。

そのため、難攻不落の名城と謳われ、戦国時代には上杉謙信による北条攻めや石田三成の水攻めなどにも屈しませんでした。特に、石田三成の水攻めでは…

天正18年(1590)3月、豊臣秀吉は関東平定のため、当時、関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将石田三成が軍勢を引き連れ忍城を包囲し、全長28kmにおよぶ堤を築き、利根川と荒川の流れを引き入れて水攻めにしました。しかし、城がなかなか沈まないため、これを見た人々は城が浮くからだと考え、「浮き城」としてその名を轟かせました。その後、堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城は小田原城降伏の後も持ちこたえていましたが、小田原城に篭城していた城主氏長の命により開城し、豊臣軍に引き渡されました。

同年、徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城します。以後江戸時代を通じて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。

寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町の整備が進められました。元禄7年(1694)、孫の阿部正武(まさたけ)のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓(ごさんかいやぐら)が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としての形が整いました。

文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠堯(ただたか)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。

その後、廃藩置県と同時に廃城した忍城は明治6年(1873)に取り壊され、現在は土塁の一部が残っています。

現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に再建されたもので、行田市郷土博物館の展示室として、行田の歴史を語り継いでいます。

地図

あずま橋の奥に見える東門と御三階櫓の忍城の写真
盛土による堤防状の防壁が作られている、現在残された土塁の一部の写真

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