ぎょうだ歴史ロマンの道ガイドブック

更新日:2022年01月20日

ぎょうだ古墳めぐりの旅~「古墳めぐりの旅へようこそ!」

行田市には、埼玉(さきたま)古墳群をはじめとする10もの古墳群があり、150基以上の古墳が確認されています。古墳は古代の権力者のお墓で、その大きさが築いた者の力を表わしていると考えられています。

行田市内では、今から約1,500年前の5世紀末頃に稲荷山(いなりやま)古墳を皮切りに埼玉古墳群が築かれ始めると、各地で中小の古墳が築かれ始めます。大日塚(だいにちづか)古墳はその頃の小円墳で、埼玉古墳群を築いた強大な権力者に従う小地域の権力者のお墓と考えられています。

ところが、6世紀後半になると真名板高山古墳、小見真観寺古墳など100m級の大型前方後円墳が周辺地域でも築かれるようになり、埼玉古墳群の古墳は大きさがやや小さくなって行きます。7世紀に入ると埼玉古墳群では浅間塚(せんげんづか)古墳、白山(はくさん)古墳、戸場口山(とばくちやま)古墳など円墳、方墳が築かれますが、若小玉古墳群ではより大型の八幡山古墳が築かれており、力関係が逆転したことがうかがえます。その後、埼玉古墳群は途絶えてしまい、若小玉古墳群では7世紀後半の地蔵塚古墳まで、古墳が築かれ続けました。

どうして埼玉古墳群は、衰えてしまったのでしょうか?それに代わってどのような権力者が現れたのでしょうか?古墳をめぐりながら、皆さんも考えて見てください。

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ぎょうだ歴史・文化の旅~忍城址から埼玉古墳群へ

忍城址から埼玉古墳群へと向かう道筋の周辺は、行田の歴史が凝縮されたエリアです。

古代には埼玉古墳群や大日塚古墳など数多くの古墳が築かれ、古墳文化が花開きました。

中世には武蔵武士が活躍し、大日種子板碑など板碑の造立が盛んに行われました。中世末には忍城が築かれ、小説「のぼうの城」の題材にもなった石田三成の水攻めにも耐えて近世を迎え、忍十万石の”老中格の城”として整備されました。また、日光裏街道も整備され、街道沿いには一里塚が築かれました。

近代に入ると足袋産業が発展し、"足袋御殿"と呼ばれた旧荒井八郎商店の洋館や足袋蔵などが建てられています。

このように、このエリアには行田の歴史を彩るさまざまな文化遺産が数多く遺されており、それらを巡っていくと、古代から現代に至る行田の歴史や文化をたどることができます。

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さきたま歴史ロマンの旅コース~埼玉古墳群から古代蓮の里へ

埼玉県名発祥の地である行田市埼玉地区とその周辺は、数多くの文化財が残された歴史ロマンあふれる地域です。

古墳時代には国内有数の規模を誇る埼玉古墳群が築かれ、現在の古代蓮の里周辺には、古代蓮が美しい花を咲かせていたようです。

平安時代には盛徳寺、前玉神社が創建され、「万葉集」にはこの地域を歌った「埼玉の津」「小崎の沼」の歌が収められました。

時代が下って江戸時代には、前玉神社と小埼沼に万葉歌碑が建立され、万葉の昔をしのぶ風土が形成されて行きました。

一方、現在の古代蓮の里付近に広がっていた小針沼は、享保(きょうほう)の改革によって新田開発が行われ、近くの成就院には三重塔が建てられ、葉衣観音菩薩(ようえかんのんぼさつ)が安置されて信仰を集めました。人々は水塚(みずか)を築いて水害を避け、排水のために辯天門樋(べんてんもんぴ)等を整備して、沼地を豊かな土地へと変えて行きました。

こうした人々の思いや願いが託された文化財を巡り、県名発祥の地さきたまの歴史・文化・風土を、ぜひ体感してみてください。

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