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更新日:2016年4月13日

古墳の時代

 

国宝・金錯銘鉄剣  

辛亥銘鉄剣

日本の古代史でとくに重要な資料が、昭和43年(1968)、埼玉古墳群の稲荷山古墳の礫槨(れきかく)から発掘されました。これが国宝の金錯銘鉄剣です。発掘されたとき、さびていて文字があることがわかりませんでしたが、昭和53年(1978)に保存処理のためレントゲン撮影したところ、偶然に剣の両面に金で115の文字が刻まれていたことがわかったのです。

銘文には、辛亥の年(西暦の471年)、ヲワケの臣(乎獲居臣)が、先祖のオオヒコから自分にいたるまで八代が代々「杖刀人」のトップとして朝廷に仕えたこと、そして自分が大和のワカタケル大王(獲加多支鹵大王・写真)を補佐したことを記念して、この練りに練った剣を作った、とあります。

「杖刀人」とは大王につかえた武人のことで、ワカタケル大王は『日本書紀』の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、つまり雄略天皇であろうと考えられています。

ヲワケについては、近畿地方の豪族とする説、武蔵の豪族とする説のほか、稲荷山古墳の被葬者とヲワケは別人で、ヲワケから稲荷山古墳の被葬者がもらったとする説など、さまざまな解釈が出ており、議論は現在も続いています。

稲荷山古墳の礫槨から出土した遺物は、現在一括して国宝に指定されています。

 

武蔵国造の乱 

武人埴輪(写真 稲荷山古墳出土武人埴輪)

 

『日本書紀』には、安閑天皇元年(534)に、武蔵国造の地位をめぐって争いがおこったことが記されています。

「国造」(クニノミヤツコ)とは古墳時代における地方の首長のことで 、武蔵の国造の地位をめぐり、笠原直(カサハラノアタイ)使主(オミ)と、同族の小杵(オキ)とが争ったのです。

年月がたっても解決しなかったため、オキは現在の群馬県にいた豪族、小熊(オグマ)にひそかに援助を求めました。

これを知ったオミは、逃げて大和の朝廷へ行き、ことの次第を報告して支援を求めました。その結果、オキを殺して、オミが国造となることができたので、朝廷へ「横渟」(現在の吉見町付近か?)をはじめとする四カ所を、朝廷の直轄地として献上しました。

「笠原直」の笠原は、武蔵国埼玉郡笠原郷、現鴻巣市笠原の地名に由来する説が有力です。この武蔵国造の代々のお墓が、埼玉古墳群と考えられています。

埼玉古墳群の見学

埼玉県立さきたま史跡の博物館

行田市埼玉4834 電話048-559-1111

 

行田市の古墳 

1 :埼玉古墳群

 埼玉古墳群

埼玉古墳群は、前方後円墳8基と円墳1基を中心とする古墳群で、「わが国有数の大型古墳が群集する古墳群」であることから、

昭和13年に国指定史跡となりました。

稲荷山古墳

前方後円墳

全長120m,高さ12m

5世紀末~6世紀初

国宝の金錯銘鉄剣をはじめとする数多くの遺物が出土

丸墓山古墳

円墳

直径105m,高さ19m

6世紀前半

日本最大の円墳

二子山古墳

前方後円墳

全長138m,高さ15m

6世紀前半

武蔵国最大の古墳

瓦塚古墳

前方後円墳

全長73m,高さ5m

6世紀中頃

多数の形象埴輪が出土

鉄砲山古墳

前方後円墳

全長109m ,高さ10m

6世紀後半

 
奥の山古墳

前方後円墳

全長70m,高さ7m

6世紀後半

 
中の山古墳

前方後円墳

全長79m,高さ5m

6世紀末

 
愛宕山古墳 前方後円墳

全長53m,高さ3m

6世紀前半

 
将軍山古墳

前方後円墳

全長90m,高さ8m

6世紀後半 石室展示館公開中

 

2 :八幡山古墳

八幡山古墳

八幡山(はちまんやま)古墳は、もともと直径80mの円墳でしたが、昭和9年(1934)に沼の干拓のため古墳の土が持ち去られてしまいました。巨大な横穴式石室が露出しているので、別名「関東の石舞台」と呼ばれています。その長さ実に16.7mで、三つの部屋に分かれています。

石室の中からは、近畿地方の天皇陵で用いられるのと同じ漆塗りの木棺の破片が見つかっていることから、この古墳の被葬者が相当な身分であったことがわかります。そのほか銅椀・須恵器・直刀など多くの遺物が出土しており、7世紀の中頃につくられた古墳と考えられています。

八幡山古墳の見学

  • 八幡山古墳公園(石室は土曜日・日曜日公開) 行田市藤原町1-27-2
  • 行田市教育委員会文化財保護課  行田市本丸2-20 電話048-553-3581

遺物の見学

  • 埼玉県立さきたま史跡の博物館  行田市埼玉4834 電話048-559-1111

3:地蔵塚古墳

地蔵塚古墳

墳丘上に地蔵堂があるので、この名があります。一辺28m、高さ4.5mの方墳で、7世紀末頃につくられた古墳です。

昭和37年(1962)に崩れていた横穴式石室を修理しようと天井の石をとりのぞいたところ、壁に線刻壁画があるのが見つかりました。水鳥や、船に乗った人物、馬などが描かれており、埼玉県では唯一の例です。

なお、現在石室は保存のため見学できませんが、埼玉県立歴史と民俗の博物館に原寸大の複製品が展示されています。

地蔵塚古墳の見学(外観のみ)

  • 地蔵塚公園 行田市藤原町2-28-1
  • 行田市教育委員会文化財保護課 行田市本丸2-20 電話048-553-3581

地蔵塚古墳の石室模型見学

  • 埼玉県立歴史と民俗の博物館 さいたま市大宮区高鼻町4-219 電話048-645-8171

4:小見真観寺古墳

小見新観寺古墳

小見真観寺(おみしんかんじ)の境内にある全長102mの大型前方後円墳です。後円部と鞍部の二カ所に、秩父の緑泥片岩でつくった横穴式石室があります。後円部の石室は江戸時代にすでに開いていましたが、鞍部の石室は明治13年(1880)に発掘調査され、多くの遺物が発見されました。現在それらは東京国立博物館に所蔵され、展示されています。6世紀末~7世紀初頭の古墳と考えられています。

真観寺古墳と道をはさんで西側には、虚空蔵山古墳(こくぞうやまこふん)があり、前方後円墳でしたが道路建設で後円部が削平されて、現在は前方部のみをのこしています。小見真観寺の山門を入ってすぐ左側に、その石室の天井石であった大きな緑泥片岩があります。

小見真観寺古墳の見学

  • 行田市小見1124-1
  • 行田市教育委員会文化財保護課 行田市本丸2-20 電話048-553-3581

 

はにわ  

はにわ(埴輪)は、死者に捧げる器をのせる台がその起源と言われています。

最初は、円筒埴輪が古墳の周りに立て並べられました。これは、古墳の墓域を示し、死者の霊を守るためのものと考えられています。

その後、人物や馬、動物などの形象埴輪が立て並べられるようになりました。これらは列やひとつのまとまりとして検出される事が多いことから、儀式や葬列を表したものではないかともいわれています。

形象埴輪は、素朴かつ写実的に作られているため、古墳時代の家や服装、使われた武器や道具などの形を知る上で、貴重な資料です。行田市内では、たくさんの埴輪が出土しています。

 

鈴鏡を下げる女子

鈴鏡を下げる女子

稲荷山古墳出土

5世紀末~6世紀初

埼玉県立さきたま史跡の博物館

 

家

瓦塚古墳出土

6世紀中ごろ

埼玉県立さきたま史跡の博物館

 

力士

力士

酒巻14号墳出土

6世紀末

行田市郷土博物館

 

筒袖

筒袖の男子

酒巻14号墳出土

6世紀末

行田市郷土博物館

 

馬をひく人

馬をひく人  

酒巻14号墳出土

6世紀末

行田市郷土博物館

 

旗をたてた馬

旗をたてた馬  

酒巻14号墳出土

6世紀末

行田市郷土博物館

 

 

大刀(たち)

大刀(たち)  

酒巻15号墳出土

6世紀中ごろ

行田市郷土博物館

 靫(ゆぎ)

靫(ゆぎ) 

酒巻15号墳出土

6世紀中ごろ

行田市郷土博物館

 鞆(とも)

鞆(とも)

酒巻15号墳出土

6世紀中ごろ

行田市郷土博物館

 

 はにわの見学

  • 埼玉県立さきたま史跡の博物館 行田市埼玉4834電話048-559-1111
  • 行田市郷土博物館 行田市本丸17-23電話048-554-5911

 

万葉集 

1: 「さきたま」の歌

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奈良時代にできた『万葉集』には、「さきたま」を詠んだ歌があります。

 

前玉(さきたま)の小埼の沼に鴨ぞ羽きるおのが尾に降りおける霜をはらうとにあらし

「さきたまの小崎沼で鴨が羽をたたいている。自分の尾につもった霜をはらっているのであろう」(巻九・1744)

 

佐吉多万(さきたま)の津におる舟の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね

「さきたまの津に吹く風が強いので、舟をつないでいる綱が切れそうだ。舟の綱は切れようとも、私への言葉は絶やさないでください」(巻十四・3380)

 

「前玉」「佐吉多万」は現在の行田市埼玉(さきたま)付近をさす地名と考えられ、平安時代の『和名抄』には、この付近の郡名を「佐伊多万」(さいたま)郡と書いてあります。埼玉郡はこの地域でもっとも広い郡であったことから、明治4年(1872)の廃藩置県のとき、「埼玉県」として県名に採用されました。

万葉歌碑燈籠の見学

  • 行田市埼玉5450 前玉神社境内
  • 行田市教育委員会文化財保護課 行田市本丸2-20 電話 048-553-3581

2:防人の歌

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奈良時代には九州に「防人」(さきもり)がおかれました。防人とは、大陸からの襲撃に備えるため九州に配置された兵士のことで、おもに東国の兵がその任につきました。『万葉集』巻二十(4423、4424)には行田市周辺から徴用される防人と、その家族の別れをしのばせる歌があります。

 

足柄の御坂に立して袖ふらば家なる妹はさやに見もかも

「足柄の坂に立って袖を振れば、家にいる妻ははっきりと見るだろうか 」

埼玉郡の藤原部等母麻呂(フジワラベノトモマロ)

 

色深く背なが衣は染めましを御坂立ばらばまさやかに見む

「あなたの衣を色深く染めるのだった、そうすれば足柄の坂に立つ姿がはっきり見えるだろうに」

妻・物部刀自売(モノノベノトジメ)

 

防人歌碑の見学

  • 八幡山古墳公園 行田市藤原町1-27-2
  • 行田市教育委員会文化財保護課 行田市本丸2-20 電話 048-553-3581   

お問い合わせ

生涯学習部郷土博物館学芸担当

電話番号:048-554-5911

ファクス:048-553-4951

住所:行田市本丸17-23