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公開日:2012年1月13日
忍城主成田氏長は、父長泰(ながやす)と不和になり、父を城から追放し、永禄9年(1566)家督を相続し忍城主となりました。越後の上杉謙信や小田原城の後北条氏から味方するよう説得工作が頻繁に行われましたが、結局、後北条氏に味方し、天正2年(1574)には謙信により忍城下を焼かれています。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めに際し、氏長は小田原城に籠城し、忍城も石田三成の水攻めによく耐えて籠城戦を続けましたが、小田原城降伏により開城し、文明初期から100年余り守り続けた城と領地の全てを失ってしまいました。
その後、氏長は秀吉方の武将蒲生氏郷(がもううじさと)に預けられ、氏郷に従い武功を上げ、やがて家康に召し出されて烏山城(からすやまじょう:栃木県那須烏山市)2万石余りを与えられました。また、秀吉の文禄の朝鮮出兵では、釜山城の普請を手伝った記録も残っています。後に烏山より京都に上洛し生涯を遂げました。
この判物は、氏長が天正17年(1589)栗原大学にあてた文書で、奉20貫文の代わりに門井地内の土地を与えたというものです。
この20貫文は、成田分限帳の記載にも一致しており、中世文書の少ない当地方としては貴重な資料です。

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